「このサービスを導入すると、年間30万円のコストを削減できます」 営業ではよく使われる説明です。30万円も削減できるなら、十分なメリットに思えます。では、少し違う状況を想像してみてください。目の前で1万円を渡されて、「これはあなたのものです」と言われます。その後で、「やっぱり、その1万円を返してください」と言われたら、どう感じるでしょうか。まだもらっていない1万円について「これから1万円もらえます」と聞くのとは、少し感覚が違うはずです。金額は同じ、1万円。それでも、「これから手に入る1万円」より、「いったん自分のものになった1万円がなくなる」方が気になる。この感覚には、心理学や行動経済学で研究されてきた人間の意思決定の特徴が関係しています。
■人は「得すること」と「失うこと」を同じようには感じない
この話を理解するうえで有名なのが、「プロスペクト理論(Prospect Theory)」です。心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが提唱した理論で、人は必ずしも金額そのものだけで合理的に意思決定するわけではなく、「得をした」「損をした」という変化の感じ方にも影響を受けることを示しました。その中でもよく知られているのが「損失回避(Loss Aversion)」です。簡単に言えば、同程度の利益を得る喜びより、同程度のものを失う痛みを強く感じる傾向のことです。100万円増える可能性がある話と、今持っている100万円を失う可能性がある話。どちらも100万円ですが、後者の方が気になってしまうことがあります。営業という仕事から見ると、これはなかなか興味深い話です。なぜなら営業では、「買ったら何が手に入るか」は一生懸命説明していても、「今持っている何を失いたくないのか」は、それほど聞いていないことがあるからです。
■「損しますよ」では、たぶん響かない
ここで気をつけたいのは、損失回避を知ったからといって、「お客様に損を伝えればいい」という話ではないことです。例えば、「このままだと年間30万円の早さも無駄になります」と言われても、その30万円を本人がそれほど大切だと思っていなければ、あまり気にならないかもしれません。「年間50万円の機会損失です」と言われても、その50万円に本人が実感を持っていなければ、やはり心は動きにくいでしょう。人がなくしたくないのは、営業担当者が「これは損ですよ」と決めたものではありません。自分が「これは大切だ」と感じているものです。ここに、営業で損失回避を考える面白さがあります。
■もう一つ知っておきたい「保有効果」
ここで関連する心理学・行動経済学の考え方が「保有効果(Endowment Effect)」です。人は、あるものを自分が所有していると感じると、所有していないときよりも、そのものを高く評価することがあります。先ほどの1万円の話も、「これから1万円をもらえる」と聞いている状態と、実際に1万円を渡されて「自分のものだ」と感じた後では、心理的な状態が違います。営業でも、この「すでに持っている」という視点は使えそうです。例えば、ある会社には毎年5,000万円を購入してくれる既存顧客がいるとします。「新しい仕組みを導入すれば、売上を500万円増やせる可能性があります」。これは、これから手に入る500万円の話です。一方で、「今の顧客離脱が続くと、現在ある5,000万円の既存顧客売上の一部が来年なくなる可能性があります」となると、見え方が変わります。すでにある売上。すでにいる顧客。それが手元からなくなる。「500万円増やしたい」と「今ある500万円を失いたくない」は、同じ500万円でも心理的には同じとは限りません。
■営業で探したいのは「損失」ではなく「なくしたくないもの」
そう考えると、商談でいきなり「どんな損失がありますか?」と探し始める必要はなさそうです。先に知りたいのは、「この会社、この人が、今すでに持っていて大切にしているものは何だろう?」ということです。一番わかりやすいのは、お金です。利益を守りたい。今ある売上を落としたくない。これ以上コストを増やしたくない。手元の現金を減らしたくない。でも、「なくしたくないもの」はお金だけではありません。長く付き合ってきた顧客かもしれません。苦労して採用した社員かもしれません。現在の市場シェアかもしれません。会社の信用かもしれません。社長が何年もかけて築いてきたブランドかもしれません。大切なのは、「何がなくなると、この人は本当に嫌なのか」を知ることです。
■では、「なくしたくないもの」はどうやって見つける?
難しい心理テストをする必要はありません。普段のヒアリングを少し変えるだけでも、見えてくるものがあります。例えば、「今年、会社として特に守りたい数字はありますか?」と聞いてみる。「今の事業で、絶対に落としたくないものは何ですか?」でもいいでしょう。「既存顧客ですね。新規も重要ですが、今のお客様は絶対に大切にしたい」という答えが返ってきたとします。そこで初めて、「既存のお客様が離れるとしたら、どんなときでしょう?」「実際に最近、そういうケースはありましたか?」と聞いてみる。すると、営業側が勝手につくった「損失」ではなく、お客様自身が「なくしたくない」と思っているものが見えてきます。お金についても同じです。「年間30万円削減できます」と説明する前に、「この30万円を別のことに使えるとしたら、何に使いたいですか?」と聞いてみる。「採用ですね。今は採用費をもう少し増やしたくて」という答えなら、30万円の意味が変わります。
■「得られる未来」だけでなく「なくなる未来」を見せてみる
損失を伝えるときも、「このままだと損します」と営業側が脅す必要はありません。相手が話した事実を、そのままつなげればいいのです。例えば、「このサービスなら年間30万円削減できます」だけではなく、「先ほど、今年は採用にもう少しお金を使いたいとおっしゃっていました。現在の契約を続けると、この30万円は来年も同じように出ていきます。ここを見直せれば、その30万円を採用に残せる可能性があります」と伝える。「30万円得します」ではなく、「本当は大切なことに使いたかった30万円を、手元に残せる」。この方が、相手にとっての意味は具体的です。既存顧客なら、「この施策で顧客満足度を高められます」だけでなく、「御社が一番大切にしたいとおっしゃっていた既存のお客様を、離さないための施策として考えてみるとどうでしょうか」という見せ方もできます。商品のメリットを変えたわけではありません。「何が得られるか」から、「今ある大切なものをどう守るか」へ、見る方向を変えただけです。
■「参照点」が変わると、得と損も変わる
プロスペクト理論をもう少し知ると、「参照点(Reference Point)」という考え方も出てきます。人は、絶対的な金額だけを見て得や損を判断するわけではありません。「今の状態」「期待していた状態」など、何らかの基準と比べて得か損かを感じます。例えば、100万円のシステムを提案されたとします。何の比較もなければ、「100万円を支払う」という話です。ところが、現在の仕組みに毎年300万円かかっていて、その状態を変えたいと本人が考えているなら、判断するときの見え方は変わります。何を基準にして「得」「損」を考えているのか。営業では商品の価格を説明する前に、この参照点を知ることにも意味がありそうです。
■今日の商談なら、こんな質問から始められる
損失回避を営業に取り入れるからといって、「このままだと損しますよ」という言葉を覚える必要はありません。むしろ今日の商談で一つ試すなら、「今あるもので、絶対になくしたくないものは何ですか?」という質問の方が面白いかもしれません。少し言い換えるなら、「今年、絶対に守りたい数字はありますか?」「今のお客様の中で、特に大切にしたいのはどんなお客様ですか?」「今の会社で、これだけは失いたくないというものはありますか?」でもいいでしょう。答えが出てきたら、次に聞くのは、「今の状態が続くと、それに影響することはありますか?」です。ここまで聞いて初めて、その会社にとって本当に意味のある「損失」が見えてきます。
■人は「損」ではなく、「大切なもの」をなくしたくない
「損失回避」という言葉だけを見ると、営業では「損を強調すれば売れる」という話に聞こえてしまいます。でも、実際の商談では、もう少し人間的に考えた方が使いやすそうです。今、その人は何を持っているのか。その中で何を大切にしているのか。そして、それがなくなることをどう感じるのか。営業側が「これは損ですよ」と決めるのではなく、相手が「これはなくしたくない」と思っているものを知る。そのうえで、「商品を買えば何が増えるか」だけではなく、「今ある大切なものをどう残せるか」という角度から商品を見てみる。「得します」より「なくなります」が気になる理由を知っていると、いつものメリット説明も、少し違ったものに見えてきます。

